一柳満喜子のこと

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生涯

一柳満喜子さんは1884(明治17)年3月18日、東京で生まれました。
明治維新後、日本が欧米に「追いつき、追い越せ」と頑張っていた時代です。
10才で母と死別し、その後しばらくは妹たち(父の愛人の子たち)の面倒も見ながら女学校に通う日々を過ごしていました。しかし大阪の広岡家に養子に入った三番目の兄:恵三の義母:広岡浅子の援助により、神戸女学院音楽科に入学し、1908(明治41)年にピアノ科を卒業しました。しばらく日本女子大学で学生の指導をしながら自らも学び、1908(明治42)年にアメリカに留学しました。最初はブリンマー大学で学びましが,健康を損ない、入院せざるを得なくなりました。その後は女学校時代に英語を教わった(日本で)アリス・ベーコン女史の元に身を寄せ、後には片腕として働きました。
父の病気を理由に日本に呼び戻された満喜子は、広岡家の改築の相談の席で、ウイリアム・メレル・ヴォーリズと出会いました。
そして、1918(大正8)年6月3日、彼と結婚しました。結婚式はヴォーリズが設計した東京の明治学院礼拝堂で行われ、新聞にも大きく報道されました。

 
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ヴォーリズとの結婚式はヴォーリズが設計した明治学院大学院礼拝堂で行われた。

 
結婚の翌年には、近所の子どもたちを集めて、清友園というプレイグランドを始め、1922(大正11)年には、滋賀県知事の認可を受けました。
幼稚園設立後も幼児教育の研究、視察のためにアメリカに渡り、滞在中にハイド夫妻に会う機会がありました。満喜子さんの幼児教育に掛ける熱い想いを知ったハイド夫人より多額の寄付を頂き、幼稚園舎と教育開館を建てることが出来ました。これらは教育事業の中心となりました。
1941(昭和16)年から1945(昭和20)年は軽井沢での生活を余儀なくされたのですが、その間は当地の教会の依頼を受け、幼稚園の指導や、疎開中の子どもたちの教育も助けました。
戦後、八幡に戻ってからは、幼小中高をようする近江兄弟社学園を設立し、学園長として先頭に立って導きました。
夫、一柳米来留の没後5年後に、同じクモ膜下出血で生涯を閉じました。